亀丸城跡から鹿児島市方面を望む


この頁では、戦国島津氏ゆかりの地として、島津中興の祖「日新公(じっしんこう)」、子の貴久(たかひさ)、孫にあたる島津四兄弟「義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)・歳久(としひさ)・家久(いえひさ)」について、ご紹介して参ります。 ふる里が生んだ戦国武将の世界を知り、認知度を高め、観光客誘致へ繋げて参りましょう。 先ずは分かりやすく全体像から・・
 
近世島津氏・発祥の地 伊作城をはじめとして、日置・金峰・加世田には島津氏と関連深い史跡・神社仏閣等が数多く見られます。
 
島津忠良は1492年、伊作島津家の善久(よしひさ)の子として生まれた。 幼名は菊三郎で、日新斎・愚谷軒(ぐこくけん)・梅岳常潤(ばいがくじょうじゅん)などと号した。 7歳ごろ、伊作 海蔵院にあずけられ、名僧頼増和尚(らいぞうおしょう)から厳格な教育を受けた。
 
忠良は善久の死後、相州家の島津運久(ゆきひさ)の養子となり、子の貴久(たかひさ)は、のちに宗家(そうけ)を継ぎ、南九州統一の基礎を築いた。 忠良は加世田に隠居し、自身の教育観をいろは歌に作って、家臣たちに示した。
 
亀丸城跡(伊作城跡)
亀丸城(県史跡)は、伊作城の本丸にあたり、伊作川中流右岸のシラス台地に位置し、標高73mを最高地とする山城である。 亀丸城に、義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)・歳久(としひさ)・家久(いえひさ)誕生石、亀丸城址之碑、女子誕生石、日新(じっしん)誕生地、善久・忠良・忠将(ただまさ)・尚久(なおひさ)誕生石などの碑が建てられ、井戸跡なども残っている 城の最盛期の規模は南北750m・東西1050m、楕円形の城域全体の面積が約50万㎡あった。
 
城の東から南は伊作川が、北と西側は多宝寺(たほうじ)川が流れ、北から東側は台地に続くため箱堀がある。 本丸(亀丸城)以外に、山之城・蔵之城・花見城・御仮屋城・東之城・西之城の6つの曲輪があった。
 
成立は南北朝時代にさかのぼるといわれ、伊作荘地頭伊作島津氏代々の居城で、中山城と呼ばれていた山城が前身である。 伊作島津氏はのちに島津宗家を継ぐことになったことから、当城は近世島津家発祥の地と考えられている。

海蔵院跡(日新公学問所跡)
応永5(1398)年、伊作島津家4代久義の時に建立された真言宗の寺院で、伊作郷最大の寺であった。 開山以降40代まで続きましたが、明治の廃仏毀釈により廃寺になりました。 明応7(1498)年、菊三郎(日新公の幼名)は、祖父久逸夫婦と母常盤の勧めにより、7歳から15歳までここで8代住職頼増の教えを受けたと伝えられています。 尚、廃仏毀釈により散乱埋没していた五輪塔・宝篋院塔・月輪塔など70数基の石塔は近年復元整備されました。 これらは9代をはじめとする多くの住職のものと考えられています。

亀ケ城跡(田布施城跡)
亀ケ城跡は、島津家第15代当主の貴久公を祭る亀ケ城神社境内一帯の地である。 島津家第9代忠国公の長子友久は本家を継がず、この城の初代として田布施、阿多、高橋の領主となる。 2代は運久、3代は忠良(日新公)で、忠良は1512年、21歳の時、伊作からこの城に移った。 忠良の嫡男貴久は1514年この城で生まれた。 境内に現存する両亀石及び荒神祠(こうじんし)は貴久誕生にまつわる秘話を伝えている。

島津忠良と日新公いろは歌
島津忠良(日新公)は1539年、薩州島津家の加世田別府城を攻め落とし、加世田へ移りました。 この時代は、薩摩・大隅・日向の三州でも戦乱が打ち続いていましたが、忠良によって三州統一の礎が築かれ、島津本家15代当主の嫡男貴久と孫義久・義弘らによって統一がなされました。
 
忠良は仏教・儒教・神道をきわめ、学問や武芸に秀でた名将で、六地蔵塔の建立、万之瀬川の架橋、青少年教育の推進、産業振興など政治・経済・文化の各面で善政を行いました。 忠良は、その後の島津家発展の礎を築いたことから、島津中興の祖と云われています。
 
日新公いろは歌は、日新公54歳までの作で、薩摩論語とも云われ、人間として社会に生きる道を説いたものです。 薩摩の郷中(ごじゅう)教育の聖典とされ、明治維新を成し遂げた薩摩の志士たちにも大きな影響を与えました。

一宇治城跡(ザビエル会見の地)
一宇治城は戦国時代の山城で、山の名は鉄丸山といい一番高い所は、144mである。 今から約九百年前 建久年間 郡司として着任した紀四郎時清が城を築いて、四代130年程居住した。 これを「古伊集院家」という。 その後、島津家の一族 久兼が城主となり、新しい伊集院家となった。
伊集院氏は四代「長門守忠国」の頃 勢力も強大となり、文教も栄えた。 忠国の子二人は僧となり、兄南仲禅師は郡に広済寺を、弟石屋禅師は徳重に妙円寺を建て全国に有名となった。 後、南北朝の永い戦乱が始まり、忠国は南朝に味方し、北朝の島津氏と戦った。
伊集院氏の伊集院支配も幕を閉じ、天文5(1536)年 島津貴久が城に入り太守の居住となったが、14年後鹿児島本城へ移り、後は地頭の支配となった。
 
フランシスコ・ザビエルは、1549年9月29日に、この地で領主島津貴久と会見し、日本で初めてキリスト教布教の許可を得た。 時に、貴久35歳、ザビエル43歳であった。 翌年、貴久は鹿児島城へ移り、ザビエルも布教のため京都へ出発した。 ここ一宇治城は、西洋文化との出会いの地でもある。

理解促進を図るため、薩摩藩・領域図と本宗家を中心にした島津家略系図を掲載させて頂きます。
<薩摩藩精強無比の千年史(普遊舎 歴史探訪シリーズ)より跋文・編集を掲載致します。>

世界屈指の活火山・桜島を抱く鹿児島県は、かって「薩摩国(さつまのくに)」と呼ばれていた。
江戸からも京都からも遠く離れたこの南の地は、代々島津家が統治し、独自の文化と繁栄を築いて来た。 一方で幕末期、日本をリードする数多くの英傑・異才を中央に輩出し、明治維新とその後の近代化を実現させてのは、旧薩摩藩の志士たちである。
中世の守護・戦国大名時代を含めれば、千年近い歴史を誇る薩摩藩、圧倒的存在感で日本を動かして来た、熱き「隼人」たちの真実に肉迫する!
 
江戸時代、現在の鹿児島県と宮崎県南西部を領有し、更には沖縄県の大部分も統治していた薩摩藩。 そのルーツは、藩を代々治めた島津氏の始祖が活躍した鎌倉時代にまで遡る。 鎌倉時代初め、島津氏初代・忠久(ただひさ)が薩摩・大隅・日向の三ヶ国守護に任命されて以来、歴代の島津氏がその版図(はんと)だと意識して来たのはこの三ヶ国=三州でした。
 
日本地図を広げるまでもなく、薩摩(南西諸島を含む)は我が国の西南境界です。 これを中央史観(京都や江戸=東京からの視点)から見れば、辺境であり、田舎です。 しかし、対外的に目を転じたら、その立地は一転して有利になります。 薩摩がアジアやヨーロッパとの玄関口に位置しているからです。 薩摩は「地果て、海始まる」地だったからです。
 
歴史をひもとけば、古くは遣唐使や鑑真和尚(がんじんわじょう)の来日、戦国時代には鉄砲やキリスト教の伝来、江戸時代は救荒(きゅうこう)食物となったサツマイモの伝来、幕末にはペリー艦隊の琉球来航をいち早く察知したことなど、薩摩は多くの人間や文物・情報が往来して来たと云う地勢的な環境にあります。 外来の文化・技術や情報をいち早く受容・摂取するとともに、それを国内の他地域に発信・供給することも可能でした。
 
薩摩でいちばん有名な人物と云えば、何といっても西郷です。 西郷のような人材がどのようにして育まれて来たのか。 その秘密の一端は「郷中教育」にあるでしょう。 「郷中教育」とは、豊臣政権時代、朝鮮出兵によって領内が混乱し、家中秩序が崩壊しそうになったので、士風や風紀を立て直すためにとられた教育システムです。 「郷」と云う地域ごとに青少年(二才・稚児)の自治教育を徹底したものです。 この中では「詮議(せんぎ)」が重要視され、仲間内での徹底した討論の習慣が培われました。 「郷中教育」は「郷」の武士たちの結束や団結力を高め、それは軍事力編成への転用にも有利に働きました。 実際、戊辰戦争で強大な実力を発揮した薩摩藩の軍隊は家格別、地域別の編成を取りました。
そうした郷中教育から台頭してきたのが、鹿児島城下、加治屋町出身の西郷隆盛、そして大久保利通などです。 とくに西郷の朋輩や後輩に対する統率力や人望は抜群でした。
鎌倉以来、営々と築かれた600年の伝統と、変化を恐れない内部改革の試みが両輪となって、薩摩藩の底力を生み出したのだと思います。


薩摩の歴史は、島津家の歴史なり!  初代忠久から、島津中興の祖 誕生まで
鎌倉幕府の有力御家人から島津の伝説は始まった!
元暦2年、平氏の滅亡により九州は鎌倉幕府の支配下に入り、各国に守護・地頭が設置された。 この時、島津荘惣地頭職(そうじとうしき)に任命されたのが御家人・惟宗忠久(これむねのただひさ)だ。 この忠久が所領を家名としたのが島津氏の始まりである。
建久8年(1197年)、忠久は薩摩・大隅守護に命じられ、その後、日向守護も加えて、3ヵ国を領する有力御家人となった。
建仁3年(1203年)、忠久は比企の乱に加担し、守護領国は薩摩のみとなる。
 
島津氏が薩摩に移住するのは3代・久経(ひさつね)が元寇(蒙古襲来)に備えて九州に下った13世紀半ば以後のことである。 久経から5代・貞久(さだひさ)の時代、庶子家の分立が盛んに行われ、久経の子や甥から伊作島津氏や伊集院氏、貞久の弟から、和泉(いずみ)、新納(にいろ)、北郷(ほんごう)などの諸氏が派生し、それぞれの領地に根付いていった。
元弘3年(1333年)4月、足利尊氏の要請を受けた貞久は、筑前の少弐氏、豊後の大友氏とともに博多の鎮西探題を滅ぼし、その功により薩摩守護に加えて、忠久以来の大隅・日向守護の地位を回復する。
 
南北朝時代に入ると、島津氏はもっぱら北朝方として活動した。 しかし島津氏も一枚岩ではなく、伊集院氏や山田氏、伊作島津氏などの島津一族が国人領主と連合して、たびたび宗家を脅かした。
貞治2年(1363年)、貞久は薩摩守護を師久(もろひさ)に、大隅守護を氏久(うじひさ)に譲る。 以後、両家それぞれの官職である上総介(かずさのすけ)、陸奥守(むつのかみ)にちなみ、「総州家(そうしゅうけ)」「奥州家(おうしゅうけ)」と呼ばれたが、これが新たな内紛の火種となる。
 
この頃、九州では南朝の懐良親王(かねよししんのう)が大宰府に征西府(せいせいふ)を置き一大勢力を築いていた。 そのため島津宗家も一時南朝に与したが、応安4年(1371年)、今川了俊が九州探題として下向すると、総州家の伊久(これひさ)、奥州家の氏久はともに了俊の指揮下に入り、北朝勢力の回復に貢献する。 尚、南朝勢力が衰退すると、代わって総州家と奥州家による島津氏同士の対立が惹起する。 奥州家の元久(もとひさ)が薩摩に所領を拡大し、城を築いて薩摩国内の国人領主まで配下に加え始めた。
 
両家の対立は、元久・伊久の死後も続き、奥州家・久豊(ひさとよ)は伊作島津家や阿多氏と、総州家・守久(もりひさ)は相良氏、入来院氏などと結んで争った。 20年に及ぶ抗争の末、応永23年(1416年)守久の子・久世(ひさよ)が自刃、6年後に守久自身が肥前に追われ、奥州家の勝利で幕を閉じた。
 
島津宗家の統一を成し遂げた久豊の後、その子・忠国(ただくに)も、対立していた弟の好久(よしひさ)≪薩州家の祖≫と協力して薩摩・大隅に割拠する国人一揆を討滅し、領国支配を安定に導いた。 しかし、中央で応仁・文明の乱が起こると、宗家の立久(たつひさ)は叔父・季久(すえひさ)≪豊州家の祖≫と争い、島津氏は再び分裂してしまう。
 
立久の子・忠昌(ただまさ)の時代も一族の反乱が相次ぐ。 文明7年(1475年)以後、薩州家・国久、豊州家・季久が次々と宗家に牙をむき、伊作家と新納氏の対立も起こった。 文人肌だった忠昌は永正5年(1508年)、反乱の対応に苦慮して自害する。 続く勝久(かつひさ)の頃には重臣の反乱も加わり、島津氏の弱体化はいよいよ顕著となった。


薩摩の歴史は、島津家の歴史なり! 忠良(日新公)・貴久・島津四兄弟の活躍
勝久は国内支配の強化のために、伊作家出身で相州家2代目の運久(ゆきひさ)の養子となっていた忠良(ただよし)に支援を要請。 その見返りとして、大永7年(1527年)忠良の子である貴久(たかひさ)に薩摩・大隅・日向守護を譲渡する。 だが、薩州家の実久(さねひさ)がこれに反発し、以後10年にわたって、忠良・貴久父子と実久の抗争が繰り広げられた。
 
やがて宗家被官や国人層を味方につけた貴久が実久を圧倒し、天文14年(1545年)、一族に認められて正式に守護職を相続。 5年後、鹿児島に内城(うちじょう)を築いて入城し、戦国大名」島津氏が成立する。
もっとも実力で守護職を勝ち取った貴久であったが、実際に支配力が及ぶ範囲は薩摩半島のみであった。 貴久は息子の義久・義弘とともに領国支配の強化に乗り出す。
以後20数年の間に蒲生(かもう)、肝付、入来院、渋谷氏らの国人領主を降し、薩摩・大隅を平定。 天正5年(1577年)に伊東氏を豊後に追って日向を制圧した。 悲願の「三州統一」達成!
 
この間、島津宗家は貴久から、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟の時代になっていた。 薩摩・大隅・日向の「三州統一」を成し遂げた島津氏は、前人未到の九州制覇に向けて動き出す。
天正6年(1578年)、耳川の戦いで豊後の名族・大友氏を撃破。 6年後の沖田畷の戦いでは、龍造寺隆信を討ち取り、肥後を制圧した。 筑前・築後・肥前の大名や国人も相次いで島津氏へ降り、九州制覇に大手をかけた。
 
しかし、その野望は全国統一を目指す豊臣秀吉によって打ち砕かれる。 天正15年(1587年)、20万におよぶ秀吉軍の侵攻を受けた義久は降伏を決意し、領国は薩摩・大隅と日向一郡に縮小。 島津氏は中央政権の一翼に組み込まれ、九州の戦国時代は終わりを告げたのだった。
豊臣政権下、島津氏の実質的な代表者として中央との交渉にあたったのは義弘だった。 在京して政権の命を国元へ伝え、非協力的な兄・義久を鼓舞した。
 
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、嫡子・久保(ひさやす)とともに朝鮮に渡り、獅子奮迅の活躍を見せたのも義弘だった。 しかし秀吉の死後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、義弘はわずか1500騎の手勢を率いて西軍に加わり、成す術もなく敗北する。
戦後、西軍大名には処刑、領地没収・削減などの厳しい処置が下された。 しかし、善久・義弘兄弟は、2年間にわたる徳川家康の上洛要求を退けて赦免を勝ち取り、慶長7年(1602年)義弘の三男・忠恒(ただつね、後に家久と名乗る。 叔父にあたる家久とは別人)が当主として承認され、初代・薩摩藩主となる。 翌年、関ヶ原で討ち死にした豊久(とよひさ、四兄弟・家久の子)の旧領・佐土原も返還され、薩摩の支藩である佐土原藩が成立。 近世島津氏の歴史がここに幕を開けた。

<出典>
本頁の掲載情報は下記資料を参考とさせて頂きました。
   鹿児島県の歴史散歩  編纂者: 鹿児島県高等学校歴史部会   発行者: 野澤 伸平
         発行日: 2013年12月30日 1版4刷
   普遊舎歴史探訪シリーズ 薩摩藩精強無比の千年史       発行所: 株式会社 普遊舎
         発行人: 伊藤 淳      発行日: 平成25年7月1日
   九州全土を席巻した智将  島津義久   著者: 桐野 作人  発行所: PHP研究所
         発行者: 江口 克彦    発行日: 2009年7月8日 第1版第4刷


 
 


 

 

 
 
 
  






 


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